福王子神社(式内 深川神社)
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概 要
現社号 福王子神社
読み:ふくおうじ
別名:ふこっさん
延喜式神名帳 境内社 深川神社
式内社 山城国葛野郡 深川神社(論社)
読み:ふかがわ
所在地 京都市右京区宇多野福王子町52
旧地名 山城国葛野郡
御祭神 班子女王(はんし(なかこ)じょおう)
例祭日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
葛野郡 20座 大14座・小6座
近代社格制度
創建 平安時代、1644年(寛永21年)再興
本殿様式 一間社春日造
境内摂末社(祭神)
夫荒神社(松尾大明神)
洛北の氷室から御所宮中へ氷を運ぶ役夫が当地で力尽き、息絶えたために祀られたものという。
文化財
国指定重要文化財
本殿(春日造、珍しい木賊(とくさ)葺 銅板葺) 附:棟札、石燈籠2基
拝殿(入母屋造、銅板葺)
鳥居(石造、明神鳥居)
一口メモ
仁和寺の西300mの交差点北東角に南向きに鎮座。小学校が近くにあり、神社が建っている交差点は通学時間で混雑していた。ぐるぐる回っても駐車場もないのですぐ上の個人駐車場へ短時間停めさせてもらう。境内社夫荒神社が式内社深川神社とされているが、夫荒神社は江戸期「松尾大明神」と称していた。深川神社とのつながりを示すものはない。福王子は市バス「福王子」行きで知っていた地名だ。
歴史・由緒等
光孝天皇の女御で宇多天皇の母である班子皇后を祀る。宇多天皇が仁和寺を開いたことから、仁和寺の鎮守神とされる。
由来によれば、前身は延喜式に名前が見える深川神社だったが、応仁の乱で焼失(1468年)した。その後寛永21年(1644年)に徳川家光と覚深法親王が社殿を造営し、班子女王の陵墓が付近にあったことから皇后をまつり、福王子神社となったとされる。
神社名の由来は、班子女王が多くの皇子皇女を生んだ事に由来するともいわれる。「ウィキペディア」
第58代光考天皇の后で、宇多天皇の母君班子女王を祀る。900年(昌泰3)、68歳で崩御された際の陵墓の地と伝わる。神社名は班子女王が多くの皇子皇女を生んだ事に由来する。仁和寺の守護神であるとともに近隣旧6ヶ村の氏神。江戸時代徳川三代将軍家光公により創建された現在の本殿は、一間社春日造、屋根は珍しい木賊(とくさ)葺で、拝殿・鳥居・棟札及び石燈籠弐基とともに国の重要文化財に指定される。本殿の左には丹波国から都の宮中に氷を運ぶ道中に息絶えた役夫の霊を慰める「夫荒社」と年々大きくなっていると言い伝えられる「さざれ石」がある。他に、拝殿正面に掲げられていた鳴滝砥石の額は一見の価値あり。
「京都観光NAVI」
境内・社叢
鳥居 社号標
西入口に愛宕山とある。愛宕山神社参道の道標だろう 手水舎
拝殿(舞殿) 社殿
本殿拝所 本殿
左境内社夫荒神社
地名・地誌
福王子
班子女王の陵墓が付近にあったことから皇后をまつり、福王子神社となったとされる。
一説には、むかし丹波の氷室から御所に氷を献納した役夫が、このあたりで力尽き、息が絶えたという悲しい物語と、その霊を鎮めるために建てられた夫荒社(ぶこうしゃ)があります。この社が福王子の地名の由来といわれています。
地 図
交通アクセス・周辺情報
京都市営バス 『福王子』バス停下車、すぐ
京福電鉄北野線 宇多野駅下車、徒歩3分
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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